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上野という地名は、「上が野原の山」という上野台地のことを指した呼称がやがて地名になったという説が有力です。この地域は、旧石器時代から人が住み着いたといわれており、上野忍岡遺跡群をはじめ貝塚などが少なからず発見されています。当時の台地の周辺は海だったようで、この地域が海水の後退や土砂の堆積で地上に現れたのは、室町時代のことと推定されています。現在の不忍池はこのころに形成されたとされています。  江戸時代に入り、上野山が江戸城の丑虎の位置にあったことから、鬼門を抑える寺として寛永元年(1624年)に寛永寺が建立されたことは有名です。36万坪に及んだとされる伽藍内は、静かな森で、広小路(現在の上野広小路)は火除け地として設けられました。寛永寺は江戸末期の上野戦争(彰義隊の戦い)で消失しています。  
帝冠様式の
東京国立博物館
明治に入ってこの上野台地上は官営地になり、病院が計画されたこともありましたが、当時のお雇い外国人で医師のA・F・ボードワンの勧めで、政府は明治6年に太政官布告を出し、ここを日本で最初の公園に指定しました。その後、この地では何度か内国勧業博覧会が開催されましたが、第1回の(明治10年)来場者数は45万人といわれています。こうして、博覧会会場跡には、博物館、美術館、動物園などが建設されるようになり、現在の上野公園に至っています。  現在の東京国立博物館は昭和12年(1937年)の建設ですが、設計競技で案が募集され、その中から第一生命相互館の設計で有名な渡辺仁の案が採用されました。この建物は代表的な「帝冠様式」といわれ、ヨーロッパ式の建築に日本の城郭風の屋根を載せた表現となっています。内部にも、展示ケースのガラスを微妙に傾けて光の反射を視線からずらすなど、細かな配慮が見られる建物です。ちなみに、上野動物園はもともとこの博物館の一部として明治時代に構想されたものです。

ル・コルビュジエ設計の
国立西洋美術館
  明治33年に開館している表慶館は、ヨーロッパの宮殿風の表現で、当時の宮内庁技官・片山東熊が設計を行っています。また、国立西洋美術館は、戦後に世界的に著名なフランス人建築家ル・コルビュジエによって設計された近代主義の建築です。この南側に位置する、東京文化会館はコルビュジエの日本人の弟子である前川國男の代表的な作品とされています。

一方、上野駅の南に延びる「アメヤ横丁」は、歳末には1日で100万人が訪れるといわれ、東京の庶民市場といった感があります。アメ横の面積は約1500平方メートル、店舗数は約550軒、一店舗の平均面積は4坪という狭小さですが、その一店舗の年間の平均売上は、地元の商店連合会の推計で2億円といわれています。上野駅の列車待ちの行列に並ぶ人に飴を売るための店舗が建ち並んだことが、もともとの町名の由来とされています。これらの飴屋の店舗は、歩合で賃貸され、日額で売上の2歩を現金払いというのが当初の条件だったそうで、最盛期には300軒を超す飴屋がありました。  
平日でも人通りの多い
アメヤ横丁

2層の上野駅
  ところで、上野駅は明治16年(1883年)に日本鉄道会社という民間鉄道会社により開業されて、120年が経過しました。現在の駅舎は昭和7年(1932年)に竣工したもので、もともとは出入口が上下に分離された立体式でした。いまでも正面から見ると建物の出入口が2層になっているのがよくわかります。

この上野駅周辺には、バブル経済の時期にいくつかの再開発計画が持ち上がりましたが、実現せずに今日に至っています。現在では、西郷隆盛像の下にある通称「西郷会館」や東宝直営の公園口の映画館が取り壊されることが決まっています。西郷会館の跡地には地上3階地下2階の商業ビルが、映画館跡地には飲食店を中心とした延床約3500平方メートルのこちらも商業ビルが建設されることになっています。両方とも、半世紀に渡って上野の街を訪れる人々に利用されたビルで、「昭和」の証人が、また一つ消えることとなるようです。  
解体中の東宝映画館(奥)

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